母の頬に触れていたい

2011年に脳腫瘍を患い、2020年5月現在、自分で喋ることもできない母が眠る前に頬に触れてハグする息子の日記。

母はたくさんの水分をとる必要がある。

しかしながら、水やお茶、大好きなカフェオレですら飲むのが困難。

 

なので、ラクーナというシュガーレスのゼリー飲料を毎日飲んでいる。

ただそれだけではかわいそうなのでその季節季節のフルーツを父が買ってくる。

 

 

すもも

 

ブルーベリー

 

 

カキ

 

ビワ

 

中でも桃はみずみずしく、喉も潤うだけでなく、母の表情からみても相当気に入っているみたい。

 

 

できるだけ一口になるようにカットし口へ運ぶ。

 

 

昔、僕自身が風邪で寝込みうなされていた時、母はよくりんごをすり潰してスプーンで口に運んでくれたこと。

 

それを、今更になって僕がしてあげるような感覚。

 

 

オムツを変えるときもそう。

 

どれだけオムツを変えてもらったのか記憶は定かではないけれど、数えきれないくらい母に変えてもらっただろう。

 

 

父は汚いのが苦手とかで子供のオムツ変えは一切やらなかったらしい。

 

 

父曰く「子供の世話から逃げてきたツケが回ってきて、老後にオカァのオムツを変えることになってしまった。」

 

 

などと言っていた。

 

 

言いえて妙である。(使い方間違ってないよね?)

 

 

言い得て妙いいえてみょう)とは「ものごとを的確に言い当ている」という意味で、相手の表現が「まさにその通りだ」「そういう見方もあったのか」と思ったときに使う慣用表現一つである。 

 

大丈夫みたい。

 

 

 

我々の生きる理由とは”魂の成長”という話を聞いたことがある。

 

 

輪廻の中で魂の経験値を蓄えるために、生まれたのであれば、自分に降りかかる苦境などすべてのものは魂成長のための、試練なのだろうか。

 

 

 

母の病気もそうなのかもしれない。

 

 

僕の大学受験失敗や、あの苦い失恋もそうなのだろうか。

 

 

 

話がそれてしまったが、母は桃が好きで、母に桃をあげる時、桃をほうばる音が無音の室内に響くのはなかなか可愛らしいものだ。

 

 

 

ただ癌の養分がブドウ糖ということはわかっているので、果糖もおなじ。

そこだけが引っかかっている。

 

 

血中、もしくは尿中のケトン体値を測りながらケトン食へ移行していきたいのだけれど、父が了承しない。

 

 

稀に起こる左半身のけいれんが酷くなってきている、ということは右脳に腫瘍が大きくなってきているということ。

 

 

毎日できるだけ気分転換になりそうな映画やドラマを見せている、母はよく笑うし、よく泣く。

 

 

ストーリーなどは完全に理解できているようで、その感情の現れをみるたびにやっぱり嬉しくなる。

 

 

 

映画やドラマ、エンタメとは偉大だ。

 

 

それがフィクションだとしても、観た人、感じた人の心の棘を抜いてくれるようだ。

ケトジェニックを実践

母の左手と左足が突然ピンとのびて固まる。

 

 

腫瘍が右脳にのびてきているのだろうか。

 

 

さすりながら筋を伸ばしたりするのだけれど、しかめっ面で痛そう。

 

 

表情とうめき声、泣いたり歯ぎしりしたりが母の精一杯の自己表現。

 

 

いつか話せるようになったらいいなと思い、ケトジェニックを試すことにした。

 

 

通常の食事から得る糖質はがん細胞の大好物。

(PET検査はその性質を利用した検査です。)

 

しかし、糖質制限をすることで身体は脂肪をケトン体というエネルギーに変えて使うことが可能なのだ。

 

さらにここが重要なんだけれど、ケトン体はガン細胞には吸収できないエネルギーです。

 

食事内容的に母にはつらい思いをさせますが、これでがん細胞が無くなってくれれば話せるし、いつか歩けるかもしれません。

 

 お医者さんに相談しつつ以下のメニューを試してみます。

 

朝:ゆで卵2つ、納豆1パック

昼or夜:魚100g、豆腐150g / 脂身のすくないお肉(胸肉やササミ)120g+食物繊維20g

 

※ここでいう魚とはマイワシ、サバ(缶詰もOK)、マグロ刺身、カツオ刺身などEPADHAは豊富なもの

※ここでいう食物繊維とはキノコ類、もずく、ブロッコリー、アボカド

 

 

それらにココナッツオイルから抽出されたMCTオイルを朝晩小さじいっぱいずつ飲む

 

 

キノコ類は抗がん作用があり、アボカドとMCTオイルは天然の抗がん剤とも呼ばれているようです。

 

 

MCTオイルは若干高いけれど、命に比べれば安いもの。

 

 

できるだけ味つけに糖質が入らないように、水分は多めに取らせつつ、かつできるだけ美味しく料理をして母に食べてもらうことにします。

 

 

ちなみにこの食事方法は長く実践することはできません、あくまで短期的に試す方法です。

 

 

これから、経過をみていきたいと思います。

母が倒れるまでやっていた免疫を下げる習慣

2011年に手の痺れを訴え、職場で倒れ病院に運ばれた母。

 

 

母の病気をきっかけに脳腫瘍や癌について色々調べてきたので、僕たち家族はそういった病を患った家族が今までいない家庭に比べ随分詳しくなったと思う。

 

 

その母が倒れるまでに行っていた習慣(しかもかなり長い間やっていた)。

 

 

まず、その1「夜更かし」。

 

 

母の仕事は定時から始まり定時に上がる公務員。

 

 

ただ母は仕事熱心であったため、帰宅して夕食を作り、食事の後片付けの後、自室のPCに向かい持ち帰った仕事の資料を作ったりしていた。

 

 

稀にハマっている韓流DVDなどを見たりしていたよう。

 

 

つまり慢性的な睡眠不足だったことが考えられる。

 

 

僕も高校生の頃、母が借りてきたビデオ(VHS)を朝方までよく見ていた。

 

 

翌朝ちゃんと仕事に行く母、学校で寝る僕(バカ)

 

 

睡眠不足は確実に免疫を下げる。

 

 

父はよく「眠らんと病気になるで!」と母にいっていたがまさにそうなってしまった。

 

 

睡眠がいかに大切かというのはさんざ追われてきたことだろう。

 

 

でも人には正常性バイアスというものがある。

 

 

自分だけは大丈夫だろう、ほとんどの人は怪我や病気に自分がなるなんて思わない。

 

 

二つ目の悪習慣は「糖質の多い食事」。

 

 

母は身長が165cmくらいあって、女性としては大きめ。

でも体重もそこそこあった。(ふくよかというか・・・)

 

 

これは僕のほぼ正しいと考える推測だけれど、PET検査と言われるものがある。

 

 

簡単にいうとブドウ糖に対して、放射線を当てると光る薬をつけて点滴をする。

その上で、放射線を当てると癌ができている部位を特定できるという検査

 

 

癌はブドウ糖が大好きなので、慢性的に食べ過ぎている人や、お菓子などで糖質を多く取る方は注意したほうがいいかもしれない。

 

 

健康にいいと言われてコンビニなどで販売されている野菜ジュースもかなり糖質が高いし、エナジードリンクなんてもっての外。

 

 

 

悪習慣その3、「運動不足」。

 

 

田舎は車文化だから、ただでさえ田舎の人は歩かない。

以外に東京に住んでいると最寄り駅まで歩いたり、駅から会社まで歩いたりと田舎の人より運動をしている。

 

 

でも、田舎は本当に歩かない。

 

 

運動不足は筋肉が落ちるし、筋肉量が落ちると基礎代謝が落ちて基礎体温が低くなる。

癌患者のほとんどは基礎体温が低いと聞いた。

 

たしか、何かで読んだけれど癌患者には35度台の人が多いらしい。

 

  1. 睡眠不足
  2. 糖質の多い食事
  3. 運動不足

 

おそらくこの3つが慢性化していたために、脳腫瘍ができてしまったのではないかなと思っている。

 

 

お医者さんに確認したわけではないけれど・・・、これは僕の推測だけど、よくない習慣というのは間違いない。

 

 

もし、このブログを読んだ方でご家族や知り合いがこの習慣に当てはまっているのであれば教えてあげてほしい。

 

 

といっている間にもう午前3時を過ぎてしまった。

僕も早く寝ないと・・・。

 

母は今眠っている、腫瘍の肥大化に伴い歯ぎしりがひどい、時々大きなうめき声をあげる。

 

 

歯医者に作ってもらったマウスピースはすぐにボロボロになってしまうので3つめ。

 

 

 

しかし、表情は穏やかだ。

母の癲癇(てんかん)、無呼吸症候群について

母はイーケプラという癲癇の薬を飲んでいる。

 

 

脳腫瘍の患者にとって癲癇は多いみたいで、何度か癲癇の発作が起きて救急車のお世話になったことがある。

 

 

特に疲れてたり、睡眠の質が悪い時に発生することが多いよう。

 

 

去年、2019年のいつだったか2ヶ月ほど母の反応が極端に悪くなったことがあった。

 

 

 

その時にかかりつけのお医者さんも「覚悟しておいてください」といった。

 

 

 

家族全員覚悟をしていたけれど、母は今その頃より元気だ。

 

 

ではどうやって、元気になったのか。

 

 

きっかけは兄だった。

 

 

余談だけれど、僕の兄はいわゆる秀才で物事をしっかり調べる。

何か一つ買うのでもあらゆる方面で比較し安くいいものを買う。

 

 

僕はすぐ飛びついて損をするタイプのバカ。つまり真逆。

 

 

 

話は戻るけれど、兄はこう考えた

 

 

「先生はああいっているけれど、反応が悪くなる以前と比べて現状、腫瘍の影が大きくなっていない。では他に原因があるのでは?」

 

 

そこから数日兄は母のベッドの横で眠り母をよく観察し、あることに気づいた。

 

 

いびきが鳴るそしてその後、数十秒もの間呼吸が止まってる。

 

 

おかんは、無呼吸症候群の疑いがある。

 

 

そう考えた兄はすぐに呼吸器科の先生に相談した(その時僕も一緒にいった)

 

 

呼吸器科の先生は言い方がちょっと悪いけれど、感じが悪かった。

 

 

「腫瘍が原因の無呼吸であれば、何もできることはないですよ?」

 

 

兄「腫瘍は大きくなっていないので腫瘍は関連のない無呼吸症候群じゃないかなと考えているのですが・・・」

 

 

先生はめんどくせ〜なコイツ。というような感じで別の病院の呼吸器科の先生へ紹介状を書いてくれた。

 

 

その紹介してもらった先の先生が本当にすごくやさしい方で、親身になって相談にのってくれた。

 

 

僕も兄もその先生が好きだが、おそらく母も好きだと思う。

 

 

そしてその先生の病院で無呼吸症候群の検査を受けるため一泊することになり、結果重度の無呼吸症候群だということになった。

 

 

つまり母の反応の悪さは無呼吸症候群による睡眠の質の悪化が原因だったのだ。

 

 

医大の先生たちですら気づかなかった問題を兄が原因を突き止めたのは本当にすごい。

あの時兄貴が気づかなければ母はどうなっていたことか。

 

 

その診断結果を元に母は今、寝る時には必ずCPAPシーパップ)というものを利用している。

 

 

シーパップが少し外れていたり、すると翌朝はやはりしんどそう。

 

もし、脳腫瘍で苦しんでいるご家族がいらっしゃる方、腫瘍が大きくなっていないけれど常時しんどそうで、反応が悪い場合、睡眠時の無呼吸がないか見てあげてください。

 

 

この話がすべての脳腫瘍の患者さんに当てはまるとは思わないけれど、少しはお役に経てば嬉しい。

免許更新がしたい

母は車の運転が好きだったため、リハビリして退院したら「まずは車の運転をしたい」としきりに言っていた。

 

僕ら家族もそれを願っていたけれど、結局リハビリでよくなるどころか右半身が完全に動かなくなり、それにともない免許更新は断念。

 

そのあと父の運転で桜を見にいった時、その時はまだ喋れた母が「くやしい」と泣き出し父も大声で泣いてしまったそう。

 

「桜の木の下で、ええ年した2人がワンワン大声で泣いたわ。」と父は笑っていた。

 

 

それから時とともに左半身も動かなくなり、そして今は喋れなくなってしまった。

 

 

寝返りを打つこともできない、排泄のコントロールもできない。

 

 

時々母は声にならない叫びにも似た声で泣くことがある、いや・・・最近では泣かない日はないといってもいいくらい。

 

 

僕がなだめると余計泣く。

 

 

母は音楽が好きだったので、YoutubeAmazonプライムミュージックで母の好きな音楽、ミスチルや、ノラ・ジョーンズさだまさしや、スピッツなどとにかくリラックスできる音楽をかけてあげるようにしている。

 

 

音楽を聴いている間だけ、母はほんのわずかな時間、現実を忘ているような穏やかな表情になる。

 

 

2020年コロナ問題でやりだまにあげられていたけれども、ライブハウスから生まれた音楽はこの田舎の片隅で・・・いや世界中でどうしようもない悲しみに浸るモノを癒し続けていることを忘れてはならない。

 

 

決してないがしろにしてはいけない人類の財産であると思う。

 

 

話がそれてしまった。

 

 

はじめにお伝えするべきであったけれど、僕がこの日記を書いているのは僕自身の備忘録のため、そしてこれを読む誰かを勇気付けられたらいいなと思っているから。

 

 

あと、僕は母が喋れるようにったり、歩いたりする日々がまた来る可能性が0ではないと未だに思っている。

 

 

何度も放射線治療抗がん剤をやっているけれど、未だに週一で医大に通院しているけれど。

 

 

この日記の時系列はバラバラだと思う。

それは単に僕自身が雑な人間だからであって、そこで矛盾点が出る可能性だってあるけれど、一つの太い軸として常にこのブログタイトルが根っこにある。

 

母に食事を取らせたあと、

 

薬を飲ませ、

 

歯磨きをして、

 

音楽を聴かせながら硬くなった全身の筋をマッサージで伸ばし、

 

オムツを変える時にお湯で濡らしたタオルで下半身や脇、首や顔を拭いて、

 

顔に化粧水をつける。

 

 

その時穏やかな表情になった母はまるで赤ちゃんのようで、ほっぺたはプニプニ。

 

 

そのほっぺたは触りたくなる。

 

 

ずっと触って、そして頬ずりしていられる。

手術が終わって

手術が終わり、沢山の管に繋がれたおかんは全身麻酔が聞いており眠った状態。

 

 

呼吸をしているのだけ確認して少し安心した。

 

 

担当してくださった京都大学のお医者さん、初対面の時あまりにも若くて(30代くらい)サーフィンとか好きそうな色黒でチャラい感じだったから大丈夫かな・・・(失礼)思っていたけれど、本当に話し方も紳士で信頼できる人だと感じた。

 

 

その先生が10数時間かけておかんの腫瘍をとってくれた。

 

 

先生曰く「99.99%は取りましたが、正常な神経や細胞を傷つけるため100%取り除くことはできません。なので再発率は100%です。」

 

 

再発率を聞いた父親は夜泣いていた。

 

 

病院近くの宿で父と兄と僕で川の字になって寝ていた時、父が言った。

 

 

「俺な?誰にも言ってなかったけどおかんと離婚しようと考えてたんや。」

 

「なんで?初めて聞いたわ。」

 

「最近のおかんの性格がキツくて、ちょっとしたことで激怒されてたんや。それがほんまに耐えきれんで離婚を考えてた矢先にこの病気がみつかった。よく考えたら脳腫瘍が原因で性格が変わっていたのかもしれんな。」

 

 

僕はある程度調べていたので脳腫瘍で性格が変わることがあることを知っていた。

 

「まぁあるやろうね。」

 

暗闇で父は泣いていた。

布団からそっと手を出して父の手を握ってあげた。

 

冷静に考えると20代後半の息子と、50代の父親が手を握りあって寝るなんて気持ち悪いことこの上ないのだけれど、その時はなんとなくそれが正しいと思った。

 

 

その暗闇で僕も一つ思い出したことがあった。

 

2011年の年始に帰省した際に母から最近右手が痺れると言われたことを思い出した。

 

母の腫瘍は脳の左にできていたから、あの頃から腫瘍が正常な神経を圧迫していたのは間違いない。

 

僕は少し太ってきた母に「運動しなさすぎやろ!」などと適当なことを言っていた。

 

 

あの時に未来がわかっていれば、すぐに脳の検査に行かせたのに。

 

あの時にあんなこと言わなかったのに。

 

もっと優しくしてやったのに。

 

 

そういえば、母は毎年人間ドックで全身検査を受けていた。

母が手術の少し前に言っていた言葉は今でも思い出す。

 

 

「毎年全身ドックで検査しよったのに、脳だけはしてなかった。ほんなら脳がいかんなった。」

 

 

僕は何もいえなかった。

母が倒れた

2011年、故郷にいる母が倒れた。

 

 

東京で暮らす僕に対して、父から何度も入っていた不在着信に嫌な予感を感じつつ父へ折り返しそれを知った。

 

 

僕は仕事の休憩中、頭が真っ白になったが、夜仕事終わりに病院にいる母本人としゃべったところ「案外元気そうだな。」と感じホッとしたことを覚えている。

 

 

医者が言うには「脳に腫瘍がある、ただ悪性かどうかがまだわからないので細胞をとって検査する必要がある。」とのことだった。

 

 

父は言った「おそらく悪性じゃないやろ、大丈夫や。」

 

 

根拠はない。

 

 

その発言は僕や兄に向かって言ったのではなく、”そうであってほしい”という強い祈りなのだと感じられた。

 

 

開頭手術を行い、脳腫瘍の一部を取り地元の国立大学で分析してもらい判明した病名。

 

 

脳腫瘍のステージ4のグリオブラストーマで、このまま何も治療をしない場合は余命2〜3ヶ月です。」※ステージ4はレベルとしては一番最悪

 

 

父は目の前が真っ暗になったそう。

僕と兄もショックを受けたものの、何か方法がないかと検索してさらに絶望した。

 

 

それは生存率が極めて低いこと。

 

 

そして、脳腫瘍の患者さんが書くブログのほとんどはマメに更新しているものであっても、途中で途絶えていたこと。

 

 

お医者さんからの推薦状をもらった父は母の手術のために京都大学へ行くことになりました。

 

 

僕と兄は東京から京都へ、父と母は地方から京都へ。

 

 

久々に会った母は思いの外元気でよく喋っていた。

 

 

今でも覚えている母の言葉。

 

 

「あんたらが東京で離れて暮らしゆやろ?だから家族がバラバラな感じがしてちょっと寂しかったけど、私の病気で家族がまた一致団結する感じがしてるから、この病気もそんなに悪くないと思うよ。」

 

 

心配させまいとしてなのか、本心なのかは表情や声のトーンから判断できなかったけれど、あの頃の母の日記を読む限りでは夜泣いていたみたい。

 

 

当たり前だよね、一番苦しいのはおかんだったはず。

 

 

父は「(病気が)逆やったら俺はすぐ死ぬな。」いっていたけれど、それは俺も兄も同じだと思う。

 

 

女が強いのか、おかんが強いのか。

 

 

手術前のおかんのため地元からはるばる京都まで訪ねてくれた旧友の2人と笑顔で写真をとり、その直後手術室へと向かった。

 

手術室に入る前におかんは言った。

 

「がんばるきね!」

 

僕と兄と父で母の手を握って言った。

 

「がんばれ!」

 

そして午前中から夜まで長時間かかった手術が始まった。